とつげき★マトはどこだ?(後藤くりこBlog)

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カテゴリ: ★debate★

優勝しました。
ベスディはパートナーのAさんでした。
関係者の皆様、本当にありがとうございます。
いまの気持ちは、嬉しいというより、悔しい。
勝った、というより、負けなくてよかった。

自分で納得できるスピーチのできた試合は1試合もなかった。
パートナーが素晴らしい方だったので、そもそも負けるなんて私が足を引っ張ったという以外にありえなかった。
決勝組合せ発表前も、私が予選のバロットを下げてしまっていることが本当に辛かった。

次は気持ちよく「勝った!!!」って言える試合をする。

明日、ディベーター(選手)に3年ちょっと振りに復帰します。

復帰するかどうかにはものすごく迷いました。
社会人でディベートに関わる方法は、選手以外にもあります。
現にこれまでの3年間は、大会運営者・講座講師・審判として、
ディベートに関わってきました。

この関わり方でも、自分のしたい、
ディベートの良さや考え方をより多くの人に伝えていくことに
貢献できます。

でも

どうしても迷いがあって。
それはJDAでは優勝したことないとか、
結局選手としてベストディベーターは頂いたことないとか。

いままであまり口に出したことがなかったけれど、
選手としての自分に未練があることに気づいて。

「学生選手権で優勝して引退」というキリの良さを捨て、
わざわざ苦手な選手としての立場に戻って、
もう1回選手として、ただの選手ではなく、
ちゃんと認められる選手に。
賭けなのかもしれません。
だって、スピーチ苦手で人前に立つと緊張して頭まっしろになる。
頭がいいわけでもない。
仕事は、まあ、定時で帰れる類のものではない。 

一回「選手をする」というからには、
JDAで優勝する、ベスディをとるということでしか
自分を認めることはできない。

でも、なんか後ろ髪引かれた。
なので、ちょっくら明日は大会にでてきます。

気持ち新たに、パートナーや対戦相手、ジャッジから学んで、
ディベーターとしてのスキル、
ディベート教育そのものに関する知見を深めていきたい。 

冒頭の通りです。水掛け論を脱するには水掛け論であることを自覚することがまず何よりも最優先事項です。なぜなら、水掛け論を水掛け論と自覚し、その次の手を相手よりも先に打つことこそが、水掛け論を脱することにつながっていくからです。ちなみにこういうシーンは会議などでもよく見ることがあるので、応用可能だと思います。
なお『次の手』とは、以下に述べるレベルに置き換えて考えると『その次のレベルに達すること』です。相手はもともとのレベルのままで、自分たちがその次のレベルに到達できれば、それは水掛け論ではなく優劣をつけられる議論となります。
 レベル1:そもそも証明が足りていないから比較できない
文字で見ると「いや、ないでしょ・・・」という気もしますが、案外あるのがこのケース。双方ただ単に「多いです」とか「いや、少ないです」とか言い合っているのだけれど、具体的な数が示されていないために結局「多い」のやら「少ない」のやら全く分からない。
こういう状態の時には、まずは自分たちの側から「論理的に」「どれくらいの数値になるのか」を示しましょう。(具体的な数字が出ないとしてもせめてどの程度の変化が訪れる差なのかの説明はほしい。)何も分からない状態のままでは完全に水掛け論です。かたほうの側からだけでも具体的な数字が証明されれば、その数字をもとに、次の次元での議論を展開することができるようになります。
※具体例思いついたらまた別にかくかも
※以下、「数」を「範囲」とか「程度」という意味でもつかっています。

レベル2ー①:具体的な数はわかる、けれども・・・

次に、具体的な数はいちおうあるのだけれどもそれが「多い」のか「少ない」のかの判断について水掛け論に陥っているケースが結構よくあります。
たとえていえば剛力彩芽について
A「あいつはかわいい」
B「いや、かわいくない」
とひたすらエンドレスリピートでいいあっている状態です。こういう状態を脱するためには、今、議論のフィールド上にはないなにかの尺度、判断基準を持ってくるようにしましょう。具体的には、それを判断する状況がどういう状況であるのかの解説だったり、それを判断する時に何を最重要視する必要があるのかだったり、です。
先程の剛力彩芽なら
全日本人女性のなかでみれば「かわいい」と判断できる
芸能人のなかでみれば「かわいくない」と判断できる などなど
※あくまで例です。私自身はべつに特別な感情は持ってないですw

レベル2-②:どちらもそれぞれ異なる数を提示している!

こうなった時の対処方法は2つあると思います。
1、数字の信憑性であらそう
2、数字の妥当性であらそう
「信憑性」であらそう、とは、そもそもその数はホントに「正しい」数なのか?証明に使っている資料は怪しい、その資料は古い、その資料の統計の取り方はヘンだ(これは妥当性にも関連する)等の角度から反駁をしていく方法です。
「妥当性」であらそう、とは、数そのものを疑っていくのではなく、その数を今回の議論の中で使うことの妥当性を問うていくという方法です。たとえば①でつかっている剛力彩芽の例を継続するとしましょう・・・
A「剛力彩芽はかわいい。これはネットアンケートで示されてる」
B「いや、そのアンケートをもって剛力彩芽は『ビブリア古書堂の事件簿』ヒロインに抜擢できるほどかわいいかどうかという話をするうえでつかうことはできないでしょう。対象はネット上の人で、一般国民とは層のずれがあるし、そもそもヒロインに抜擢できるかを議論する上でただ単にかわいいかではなく原作ヒロインに類似したかわいさをもっているかも重要であるので、一般的な『かわいさ』を問うたアンケートをここで用いるのは妥当ではない」(徐々に苦しくなってきました。)
ちなみにかしこい人であれば気付いたでしょうが、信憑性を問うことと妥当性を問うこととは明確に区別できない場合も多いです★まあ区別することは必要じゃありません。
まだいろいろとありますが、今回はこの辺で。

2012年11月18日(日)は関東甲信越地区秋季ディベート大会でした。ジャッジ・スタッフとしてご参加いただいた方々、本当にありがとうございました。そして、お疲れ様でした。 本大会、参加チーム数の上限を「36」としていたのですが、今回はそれを上回る数の参加申し込みがあり、締め切り後にも「でたかったのに!」という声が相次いでいました。このようにチーム数上限をつくってしまうのは、大会の質を担保するためとはいえ非常に心苦しいのですが・・・現段階の関東のキャパではツライ。 もっともっとたくさんの方にスタッフとしてお手伝いいただいたり、ジャッジとしてお手伝いいただくことで、この上限をもうちょっとあげていけたらいいなあ、と個人的には思っています。(あくまで個人的な見解です。) さて、前置きが長くなりましたが今回は私が今回、第一試合でコメントをしたサインポスティングの話について書こうと思います。 当然ですが、サインポスティングって何のためにするのでしょうか? 一義的には、相手とかみ合った議論をするためだと思います。相手のどこに反駁しているのかを明らかにすることによってかみあった議論にしていく。・・・それをもっと突き詰めていくとどういうことなのでしょうか?
私はサインポスティングが必要だと言われるもうひとつの理由のは「フローコントロールのため」だと思っています。サインポスティングとは、自分たちの発言をジャッジ(あるいは聴衆)のフロー上のどこに書いてほしいかを指示するためにする。なぜ、それが重要なのか。
ディベートするときって必ず議論をフローに書いていくじゃないですか。
ジャッジの判定もフローを見ながらおこないます。つまり、フロー上で分かりやすいところ、目立つところ、忘れられないところに書いてもらったほうが、絶対に得します。
ちなみに「議論はかみ合う」が「フローコントロール」ができていない試合というのもたまにあります。つまり、ディベーターが「●●について反駁します」と大雑把なトピックは述べてくれているのだけれど、フロー上ではどの部分にその反駁を書いたら良いのか分からないケース。
あとはさらに発展的に考えると、文面上の「フローコントロール」はできているものの、
フローコントロールする意義(判定を出す時等に自分たちの発言がキチンとわかるように、
フロー上に残す)は満たされていないというケースもあります。プランアタックはするけれど、
ここの議論についてどのようにそのプランアタックが効いてくるのかの説明がない、というケースなんかもこれに近いですね。プランの部分にフローとしては残ると思いますが、
この場合(ケースバイケースではありますが)プラン部分にフローコントロールするのではなく、個々の論点についてフローコントロールしたほうが、各論点について最後判定を出していく際、ジャッジに反駁が伝わっていないという事態を避けられると思います。
『フローコントロール』意識してみてはいかがでしょうか。(と、自分への戒めも込めて)

JDA(http://japan-debate-association.org/)についてのご報告がまだだったなあ、と。 結果は予選全勝。しかしバロットが2位のチームに及ばす3位でした。(※バロット:スピーチの論理構成、表現等に関する点数) 一緒に出てくださったパートナーに、まず感謝したいです。本当にありがとうございました!そして全日本までまた、よろしくお願いします。ディベート実験室ASの安藤さん、鈴雅さん、本当に優勝おめでとうございます!そして、本当に、お世話になりました。さらに、大会を運営してくださった方々も、本当にありがとうございました。お疲れ様でした。 結果は・・・兎に角、悔しいです。こういう「負け」方は、試合で「負け」た時の悔しさとは全然違いますね。
正直はじめに結果をみたときは「あとちょっとだったのに・・・」と思いました。でも、いろいろいろいろ考えを巡らせていくうちに、これを「あとちょっとだった」で済ませてたら問題解決にならないな、と思うに至りました。優勝を、目指していました。でも、そこまでのビジョンが甘かったし、妥協の連続でした。そもそもJDAは予選3勝したって、バロットで1,2位にならなければ決勝に進めないということは、ちょっと考えれば分かったことでした。でも、そこまで意識しないで見切り発車してしまっていたし、議論についても「これなら3勝はなんとかなるだろ」というラインで妥協しました。 バロットのつけ方がからいジャッジにあたっちゃったという判断もできるかもしれません。予選であたったチームがどこも強豪で泥仕合になった、という運の悪さで片付けることもできるかもしれません。立論のここをちょっとこういじっていたら、あの議論でここをこう説明していたら・・・そういった反省もできるかもしれません・・・。 でも考えれば考えるほどに、やはり根本的に私がJDAを舐めていたことが問題だったんじゃないか、本当に優勝しに行くことを目指し切れてはいなかったのではないか、という結論に近づいていくんですよね。あやふやなゴールでは実現しない「夢」なんですよね。具体的にきちんと描き、さらにマイルストーンを設定できて初めて「ゴール」なんだな、と痛感しました。 パートナーには本当に申し訳なかったです。どう謝っていいか、本当に分かりません。そして、こんな醜い試合を見せてしまったジャッジの方々にも本当に申し訳ないです。 そして何より自分が許せない。 もう「やる」と決めた時には絶対に妥協をしないようにする、そもそも見切り発車なんて絶対にしない・・・そう強く決意しました。 一度、精魂叩き直して出直します。 ※ちなみにJDAで決勝にバロットで進めないという境遇には3年前もなっている気がするのですが、記憶にございません。私のディベートに関する記憶は2年前のJDA決勝からです(高校時代もほぼ記憶がない)。マジで。 ※そして超余談ですが、その決勝でも記憶に鮮明なのは安藤さんに「漁船」の話を質疑でふられた瞬間のみです。なんて残念な記憶力

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