冒頭の通りです。水掛け論を脱するには水掛け論であることを自覚することがまず何よりも最優先事項です。なぜなら、水掛け論を水掛け論と自覚し、その次の手を相手よりも先に打つことこそが、水掛け論を脱することにつながっていくからです。ちなみにこういうシーンは会議などでもよく見ることがあるので、応用可能だと思います。
なお『次の手』とは、以下に述べるレベルに置き換えて考えると『その次のレベルに達すること』です。相手はもともとのレベルのままで、自分たちがその次のレベルに到達できれば、それは水掛け論ではなく優劣をつけられる議論となります。
文字で見ると「いや、ないでしょ・・・」という気もしますが、案外あるのがこのケース。双方ただ単に「多いです」とか「いや、少ないです」とか言い合っているのだけれど、具体的な数が示されていないために結局「多い」のやら「少ない」のやら全く分からない。
こういう状態の時には、まずは自分たちの側から「論理的に」「どれくらいの数値になるのか」を示しましょう。(具体的な数字が出ないとしてもせめてどの程度の変化が訪れる差なのかの説明はほしい。)何も分からない状態のままでは完全に水掛け論です。かたほうの側からだけでも具体的な数字が証明されれば、その数字をもとに、次の次元での議論を展開することができるようになります。
※具体例思いついたらまた別にかくかも
※以下、「数」を「範囲」とか「程度」という意味でもつかっています。
レベル2ー①:具体的な数はわかる、けれども・・・
次に、具体的な数はいちおうあるのだけれどもそれが「多い」のか「少ない」のかの判断について水掛け論に陥っているケースが結構よくあります。
たとえていえば剛力彩芽について
A「あいつはかわいい」
B「いや、かわいくない」
とひたすらエンドレスリピートでいいあっている状態です。こういう状態を脱するためには、今、議論のフィールド上にはないなにかの尺度、判断基準を持ってくるようにしましょう。具体的には、それを判断する状況がどういう状況であるのかの解説だったり、それを判断する時に何を最重要視する必要があるのかだったり、です。
先程の剛力彩芽なら
全日本人女性のなかでみれば「かわいい」と判断できる
芸能人のなかでみれば「かわいくない」と判断できる などなど
※あくまで例です。私自身はべつに特別な感情は持ってないですw
レベル2-②:どちらもそれぞれ異なる数を提示している!
こうなった時の対処方法は2つあると思います。
1、数字の信憑性であらそう
2、数字の妥当性であらそう
「信憑性」であらそう、とは、そもそもその数はホントに「正しい」数なのか?証明に使っている資料は怪しい、その資料は古い、その資料の統計の取り方はヘンだ(これは妥当性にも関連する)等の角度から反駁をしていく方法です。
「妥当性」であらそう、とは、数そのものを疑っていくのではなく、その数を今回の議論の中で使うことの妥当性を問うていくという方法です。たとえば①でつかっている剛力彩芽の例を継続するとしましょう・・・
A「剛力彩芽はかわいい。これはネットアンケートで示されてる」
B「いや、そのアンケートをもって剛力彩芽は『ビブリア古書堂の事件簿』ヒロインに抜擢できるほどかわいいかどうかという話をするうえでつかうことはできないでしょう。対象はネット上の人で、一般国民とは層のずれがあるし、そもそもヒロインに抜擢できるかを議論する上でただ単にかわいいかではなく原作ヒロインに類似したかわいさをもっているかも重要であるので、一般的な『かわいさ』を問うたアンケートをここで用いるのは妥当ではない」(徐々に苦しくなってきました。)
ちなみにかしこい人であれば気付いたでしょうが、信憑性を問うことと妥当性を問うこととは明確に区別できない場合も多いです★まあ区別することは必要じゃありません。
まだいろいろとありますが、今回はこの辺で。