悩んでいるAさん、その悩みを抜けだしたBさん、そしてその悩みから抜け出そうとしている私。 まわりの人と同じでいることが、自分の停滞を意味すると自覚している時。 でもそれを抜けられないのは、なんやかんや言いつつその周りに自分自身もまた、依存している(あるいは一緒にいなければいけないという固定観念に取りつかれている)ということなんじゃないかというように、ぼんやりと話を聞きながら思った。 Aさん「なんか一緒にいないとやっぱこまるじゃないですか。無視するわけにもいかないですし、なんか仲いいのに今さら疎遠になることもできないですし。でもやっぱりなんか考え方とか違って。」 結局のところ話を伺っていくと、非常に「まわりと同じではなくなってしまうことへの恐怖心」が強いように感じた。抜けられない理由をさがして、それで上昇に対する周りからの圧力をうけることを自ら許容している。周りが悪いのではない。自分で選択して、そうなっている。 かつての自分も、ずーっと、ずーっと、そうだったから、すごくわかる。周りの人はたいせつにしましょうねって、みんなに言われて育ってきたし。 でも、この「なかまあそびごっこ」からいち早く抜けていらっしゃるBさんのお話しに私ははっとした。 「自分が速いペースで進歩していくと、だんだん周りと話が合わなくなっていくんですよ。はなしてて楽しくなくなってくるんです。」 すごく、わかるかもしれない。 私自身、まわりのひとと一緒でなければいけない。大切にしなければいけない・・・というものに取りつかれている間、非常に一緒にいてたのしくなくて、しかもそうして時間的拘束をうけているから自分の成長のために時間をつかうこともできなくて・・・はっきり言って悪循環だったと思う。 しかし、一度その「まわり」から抜け出そうとしてみたら 新しい世界がちらっとみえてきた。いっしょにいて楽しい人、わくわくする人と付き合う。別にいままでのつながりが切れたからといって、困らなかった。むしろその時間を自分の成長のためにつかったり、自分と話の合う人たちと過ごす時間に使えるようになった。 はじめの一歩を一踏み出すかが重要なんじゃなかろうか。 結局、踏み出してみると景色が変わり、今まで悩んでいた時間がもったいなく感じる。遅延の代償って大きいと思う。私が、もっとはやく、中学生のころとかにこの事実に気づいていれば、きっと私はもっとのびのびと生きて行けただろうなと思う(さすがにちょっと早すぎるかもしれないけれど) 悩んでいるくらいならば一歩踏み出すことが大切なのだろう。 そういうことを改めて痛感した。